今戸の河童

小学生の頃、隅田公園と呼ばれる広場でよく遊んだものです。
公園といっても現在よく見かける整備された公園とはほど遠く、
広い空間といった方がぴったりの広場でした。
ヤギが草を食べていることもありました。
植木も管理されるというより雑草が多く、大小の石ころも転がり・・・
といった風景です。
そこにベビーブームの落し子たちが蟻の子のように遊んでいたものです。
川の向こう側は墨田区で、お寺や神社が連なるやはり広い公園が
連なっていました。
そういえば、この辺の小さな野球場から、あの王監督が生まれています。
同じ時代、川をはさんで同じ空気を共有していたのですね。

台東区側の山谷堀川は今戸橋で隅田川に合流します。
今戸橋から今戸神社にかけた一帯は今戸と呼ばれていました。

200808今戸橋a.JPGこの話は、そんな隅田川に近い今戸という場所が舞台となった
河童にまつわる話です。
川や池の近くでは河童に絡んだ話をよく聞くものですが、
河童伝説は関東から起こったもののようですね。
この話は、隅田公園で遊び疲れ、一休みに寄った同級生の家で、
その友人の祖父が話してくれたものです。
何人ものわんぱく小学生がし〜んと聞き入っていた光景が可笑しく
思い出されます。
今、いろいろなところから浅草の民話を集めていますが、
昔の文献でもときどき見かけるので有名な話のようです。

そのおじいさんが話してくれた内容というのは・・・

現在は立派なリバーサイドスポーツセンターや屋外プール、
テニス場、野球場、陸上競技場などが新しく建て直されて利用
されていますが、このお話の事件が起きた頃のこのあたり一帯は
浅茅が原と呼ばれるあしの原で、農家が点在するさびしい
水田地帯でした。
その農家の一つに白い馬を飼っているお百姓さんがいて、
朝早くいつものように馬を出そうと小屋へ行きました。
馬の様子が普段とはやや違うように感じましたが、ともかく
小屋から出して確かめようと、手綱を引いたけれど
馬はびくとも動かず、何かを訴える気配です。

不思議に思ったお百姓さんが馬の後ろへ潜り込むと、
馬のお尻の方に1mくらいの黒いものが動く気配がします。
しっかり目を凝らしてみると、その黒いものは河童でした。
河童が馬の尻尾をつかんで引っ張っていたのです。

お百姓さんは怒って、河童を捕まえたのですが、
その河童は泣いて謝って、わけを話し始めました。

「川の中に悪い魚がいて、いろいろと私たちの生活の邪魔をするんです。
困った私たちは集まって、その魚を捕まえようということになりましが、
わなを作るには白い馬の毛でないと役に立たないのです。」

お百姓さんは河童をかわいそうに思い、
何本かあげてもよいと思ったのだが、
「沢山抜くと馬が弱るから」
と答えました。
すると、河童は
「3,4本でいいから」と手を合わせます。
そのうえ「お金も明日の朝、持ってきますから」とも言いました。

お百姓さんは、河童がお金なんか持ってこないだろうと
期待しませんでしたが、河童の家族たちを思って、
「3,4本ならいいだろう」と抜いてあげました。
河童は馬の白い毛を受け取ると、大喜びで隅田川の方へ走り、
すぐに葦の原に隠れて見えなくなりました。

次の日の朝早く、昨日あったことを思い出しながら
馬小屋の前に来ると、入口の足元にはお金が置いてあります。
お百姓さんは河童の話を少しでも疑った自分が恥ずかしくなった
ものです。
その後しばらくし、何日かたつと、またお金が置いてあります。
それも一日だけでなく何回か続くようになり、
お金も小判になり、大判になり、だんだん増えていくのです。
やがて、そのお百姓は大金持ちになり、不思議なこともあるもだと
思いながら、「あの時の河童のおかげだ」と、
河童の置物をつくって、神棚に祀ったのでした。

当時の私たちはどんな顔をして聞いていたのか、
話してくれたおじいさんに聞いてみたい気がします。

かっぱといえば、浅草には合羽橋という商店街があります。
ここにも河童にちなんだ話があるのですが、それは後に譲るとして、
近くの松が谷という所には、かっぱ寺と呼ばれる曹源寺があります。
このお寺には河童大明神という小さなお堂があり、尊像が祀られています。
今戸焼でつくられた茶色の河童です。
今戸焼は今戸で焼かれた焼物ですが、現在では1軒だけになりました。
今戸焼についてはゆっくり書くことにします。
ところで、このお寺では波乗り河童という小さな河童のお人形が
いただけましたが、現在はどうなっているでしょうか。
お寺の前はよく通るのですが、しばらく中へは入っていません。
久しぶりに寄ってみたくなりました。

初詣、七福神

お正月は、子ども心に家族みんなが長い時間一緒に過ごす特別な日
という印象が残っています。
ふだんはずっと一緒というわけではない父が一日中家にいて、
いろいろな人が来てはお料理を食べたり、話をして帰る、その繰り返しが
なんとなくそわそわしたりしたものです。

家族そろっての初めての外出は、散歩がてらの初詣でした。
初詣というのは、正月元旦に神社、仏閣の縁日に詣でることを言います。
普段はお寺や神社とは縁遠い人たちも、正月のお参りにはでかけることが多く、
正月の寺社は賑わうこととなります。

東京では、江戸時代から七福神めぐりという行事がありました。
今では全国的に広がって、誰でも知っていることですが、
この七福神めぐりというのは東京から始まったものです。

その始まりを見てみると、江戸時代、現在の墨田区向島の百花園を
中心として、近くに福神を配してそれらの巡回を楽しむことだったそうです。
太田南畝ら、当時の文人墨客が寺社をめぐりながら正月の一日を過ごしている楽しそうな風景が浮かんできます。

これが後に七福神めぐりとして、全国に広がったということです。

私も両親に連れられて浅草の神社、寺を回りましたが、
記憶ではずいぶんのどかで、人ごみはほとんどありませんでした。

浅草寺の正月

浅草寺では年末から年始にかけてさまざまな行事があります。
日常の日は行事のために明け暮れたに違いありません。

お正月一番初めの行事は、早暁から宝前での大般若経の読誦ですが、
私たちになじみのある行事としては、除夜から続く「追儺」の儀式でしょう。

「鬼やらい」という行事で、追儺、節分とも呼ばれます。
現在では節分といった方がわかりやすい、あの「福は内、鬼は外」の行事です。

「浅草寺修正会、除夜より正月6日に至るまで7日間、毎夕儺(オニヤライ)あり」
とあり、古く宮廷では大晦日の夜にも行われていたものだそうですが、
これが寺院で行われる正月の行事となっていました。

浅草寺の「鬼やらい」は元禄以後、上野寛永寺の鬼やらいに合わせたとのことです。
7日間あって、衆徒の六寺が交代しながら担当し、担当となったお寺からは
鬼の役と、鬼を追う杖を持った役の二人が出て、本尊の周りを右回りに3周しました。

除夜より正月6日まで行われたとありますが、現代なら観衆がいっぱいになること
間違いありません。テレビ中継などもあるでしょうし相当なにぎわいになるはずですが、
そのころはどうだったのでしょうか。
寒い境内を鬼と杖を持って追いかける二人だけでは、さびしげな風景が
浮かんできませんか。

正月

年が明けて、浅草の新春、江戸の春を眺めてみます。
現在の下町のお正月の風景は、終戦後の雰囲気とはずいぶん変わっていますが、
それでも変わらぬ空気もあり、それは日常の変化とはちがって、江戸の文献の
世界が色濃く感じられる数日です。

江戸歳時記、巻の壱、春の部・上には「諸家御礼、商家にては2日より出る。
元日は戸を開かず。」とあります。

年の初めの日、江戸城ではこれから3日間にわたって、身分格式に応じた
年始の初登城が行われます。
「御一門方、御譜代、御大名衆、御礼(装束にて卯半刻出仕)諸御役人方、
御礼登城」とあって、将軍は年始の挨拶を受けるのに3日間もかかったそうです。
卯半刻というのは午前7時です。
冬の朝ですから、まだ暗いうちから正装の準備であわただしそうな感じです。

一方、町の方では、商家は元日だけは戸を閉めて、店開きは2日からでした。
大晦日の家業や徹夜などもあったため元日だけは休みました。
寝正月というのはこの習慣に由来しているそうです。
「今朝若水を汲み、今日より3日まで貴賤雑煮餅を食し、大服を飲み、
屠蘇酒をすすむ、屋中年徳棚を儲く 今日より6日までを松の内という」
正月元日の早朝に井戸水を汲んで、その水を使って雑煮を準備し、福茶を煮る
というのは上下貧富の差がなくすべて同じ動作だったと言っています。

その年一番の水、若水を汲む手桶も前年の暮の年の市で新調したものに
輪飾りをかけて、その年の恵方に向かって汲むというしきたりでした。
どこの家でも同じようなことをしたのでしょうが、家々にはまたそれぞれの
慣習があって毎年繰り返されてきたのでしょう。
輪飾りなども井戸水の手桶以外にも見られるようです。

この若水でつくられたお雑煮は、正月三が日のハレの食べ物で、
お餅の入った吸い物です。
ハレの食べ物に「雑」がつくのはなぜなのか、子供のころは不思議に
思ったものでした。
こんな理由だそうです。
そもそもの由来は、年越しの夜、神様をお迎えした祭りの行事の食事として、
神饌物をおろして、それを一緒に調理したので「雑」と呼んだのが始まりです。
それが後世、いろいろな具の入った雑然とした汁、という意味に変わったと
いわれています。

「大服」は「ふくちゃ」といい、正月三が日のほか7日、15日には
雑煮を食べる前の早朝、若水でいれた煎じ茶を飲む習わしでしたが、
このお茶を「大服」と言いました。
お茶には粒山椒、つけ梅などを入れて味を調えたといいますから、
冬の朝早く、食事前のお茶には目覚まし効果もあったでしょうが、
さっぱりとした味で身を清め気分を潔くさせたのでしょう。

そういえば禅宗の寺院では、梅湯茶礼というのがありますが、
「お仏供茶」と呼ばれているので、これが一般化したのではないかと
考えられる、という人もいるようです。「おぶくちゃ」をたっぷり注いだ
「大服茶」にかけているといわれればそのような気もします。

そういえば子供の頃、食卓の準備をする母から温かなお湯を出された
ことを思い出します。
お年寄りたちは日常のお茶でも「おぶく」と言っていたのを思い出します。

お正月の準備・門松と竹

お正月の準備・門松

いよいよ年もおしつまって、1年の整理と新しい年を迎える準備の最後の段階にきました。
東都歳時記、12月28日には「門松を立て、注連飾りをなすに
大かた今明日(28、29日)を用ゆ、寺社も同じ」とあります。

門松や注連飾りの準備についての記述で、これらは30日までに済ませる習慣でした。
31日に飾るのは一夜飾り、一夜松と言われ、縁起が悪いとされていたのです。
飾りつけは、庶民は自分で行い、裕福な町人や大店は鳶職が作ったのですが、
どうしても手がない者には町内の鳶職が手伝い、飾りつけてあげました。
江戸時代には鳶職が松を売り歩いたそうです。
今でも町内、町内ごとに担当の鳶職さんがいます。

門松に使われた松は、一部では「鎌刈り松」とも呼ばれたそうですが、
これは千葉県の「かまがい」近くから多く切り出され、江戸まで運ばれたことから
「かまがい松」と呼ばれたものが訛って、「かまかり松」となったといわれています。

小学生の頃、玄関前に門松が用意されたのとは別に、さらに門柱両脇に、
2階まで届くような背の高い竹も立てられたのを覚えています。
家々に背の高い竹がたつと、空が隠れ道幅が狭くなり、子ども心に都会の空気が
一変したような錯覚に陥ったものです。
当時は高い建物もなく、林立する竹が空を隠し、薄暗くなった通りを歩く小学生には
楽しい気分にさせるものでもありました。
町内の通りが普段と変わり、冬の北風が吹くと竹の葉がサラサラと音を立て、
なにかしらそわそわした気分を覚えたのを思い出します。

その竹は、年が改まり回収される頃、頼めば枝を落してくれたので
物干しざおとして使う家庭が多かったようです。
各家庭に2本づつ立てたのですから、竹の切り出し本数も相当な数に
なったはずです。地球環境の面から考えると、ちょっと問題ありでしょうね。
一般家庭でそのような背の高い竹を立てることはなくなりました。
いつごろから立てられなくなったのか気になりますが、小学生の頃の日記を
めくっても見当たりません。
江戸時代にもあったのか、これもはっきりしません。

それでもこの時期になると、今でも観音様の正門前には飾られています。

引きずり餅や、賃餅

餅つき

東都歳事記の12月26日、「この節より餅つき、街に多し」

浅草の我が家では、私がまだ幼稚園に入る前、年末になると
自宅でお餅をついていました。
家族だけでなく、近所の人や、子供の私には初めて見る顔の人も
混じって、せわしなく動き回る光景が鮮明な記憶として残っています。
その光景に出てくる父や母はいつまでも若いのですが、杵や臼などの
準備はどうやっていたのでしょうか・・・お米屋さんから借りたのでしょうか。
朝早くからざわついて日常とは違う雰囲気が、子どもの心に
好奇心を起こさせていたに違いありません。

東都歳事記の12月26日の項には、餅つきの記述が出てきます。
12月26日「この節より餅つき街に多し」とあって、門松の
準備とともに、この餅つきが年末の街をざわざわとしたせわしさに
駆り立てていた雰囲気を伝えています。

この「餅つき、街に多し」というのはどんな光景でしょうか。

江戸時代、年始用の餅は自分の家で搗いて準備していたのですが、
人手が足りないとか、時間がないとかの理由で、自分たちの手では
準備できない町家、庶民も多かったようです。
そういった家のために、注文に応じてお餅をついてあげる人たちがいて、
「引きずり餅や」とか「賃餅」と呼ばれていました。

引きずり餅やというのは、4,5人づつ組んで、餅つき道具一式を
持参しながら家々を回り、注文を受けると威勢よく賑やかに餅を
ついたということです。想像するに、4,5人づつの男たちが
大声で注文を取りながら町を歩いたり、あるいは路上で餅つきを
したりする光景は相当勇ましかったに違いありません。
昼間の路上であれば、周りに子供たちが集まり、大人たちから
邪魔だと叱られたり・・・そんな光景も浮かんできます。

賃餅というのも同じですが、こちらは場所を構えていて、
もち米を持ち込んでくる人たちに餅つきをしてあげたシステムです。
そういえば、今でも浅草のお米屋さんやお菓子屋さんでは、
年末時期になると「お餅つきます」といった貼り紙を出している
所があります。これは江戸時代に言う「賃餅」ですね。
餅つきの需要は江戸時代から変わらないようです。

こんな記述が見えます。
「市井の餅つきは餅搗者4,5人宛組み合って・・・傭て
餅つかする人糯米を出して渡せばやがてその家の前にてむら立ち
街中せましと搗きたつることいさましく昼夜の分かちなし。俗
是を賃餅または引きずり餅というなり」

餅つきは冬至すぎからぼつぼつ始まり、26,27日頃から
大みそかにかけてがピークとなりました。この頃は、まだ暗い
朝早くからつき始め、夜遅くまで続き、徹夜もあったそうですから、
江戸の町では冬の乾燥した空気の中、夜、遠くから杵、臼の音や、
いさましい掛け声も聞こえてきたのでしょう。
布団に入った子供たちの耳にも届いて、何かしらワクワクして
寝付けないでいる気持ちを想像すると、幼い私がそこにいたような
気分になることがあります。

浅草から引きずり餅やさんが姿を消したのは、いつごろのこと
なのでしょうか。

東都歳事記

江戸ブームとか江戸検定など江戸時代についての興味がますます
高まってきています。
書店に行けば専門書から解説書、手引書など、江戸に関する多くの
本が並んでいます。
それらの本の多くは、この「東都歳事記」なしには書かれては
いないと言っても過言ではないのではないでしょうか。

このサイトでも「東都歳事記」は頼りになる基本書になっています。
挿絵があるおかげで、当時の暮らしぶりがずいぶんイメージしやすく
なっています。
ここで簡単に「東都歳事記」を紹介しておきます。

編者は、斉藤月岑(げっしん)
絵は、長谷川雪旦(せったん)
刊行は、1838年、天保9年です。
斉藤月岑と長谷川雪旦の二人は、「東都歳事記」の他にもコンビで
「江戸名所図会」も編纂しています。

月岑は、この本の趣旨を次のように書いています。
概略、記してみます。

江戸のあらゆる神社の祭祀仏院の法会、並びに貴賎歳時の俗事に至るまで、
節序(四季、時間の順序)に従って集録して
東都歳事の繁多なるあらましを知らせようとしたこと。
加うるに雪月花鳥の名勝を記した。

ただ、次のようなものは詳述を避け概略にとどめたり、省いたりしています。

宮祠寺院の来由、祭会の規式流例などは詳述を避け、日時に従って
検索しやすくすることにとどめた。
末社の祭礼、支院の法事、その他境内神仏の会日などは、大きなものを
抜粋して、瑣細の行事は省略した。

四季の移り変わりに従い、また月日の順に従って編集され、
名所旧跡は自ら訪ね見聞したと書いています。

この本には挿絵があるおかげで、江戸末期の、江戸に住む人々の
日常生活を生き生きと浮かび上がらせてくれます。
四季折々の風景をバックに、正月から師走大晦日まで、
歳事を行いながら時を過ごしてゆく江戸の人々の暮らしぶりが
描かれています。

描かれた場所に立って、その方向を向くと、あまり変化していない
所があったり、あるいは面影を全くとどめないほどの変化を
見せている所があったりといろいろですが、記述を読みながら
当時の人々の日々の暮らしを想像すると楽しいだけでなく、
私たちのこれからの暮らし向きがどうありたいのかというところへ
考えが進んでいきます。

浅草ゆかりの作家たち

浅草からは多岐のジャンルにわたって多くの著名人が生まれ、
育っています。

小説家、画家、詩人、歌人、俳人、評論家、劇作家、戯曲家、
放送作家、演出家、随筆家、文学者、ジャーナリスト、芸能人・・・など。

浅草生まれというごく限られた範囲から、もう少し周辺に広げ
あるいは台東区生まれとすれば、その名をあげるだけで相当な数を
数えることになります。

それぞれの詳しい紹介は、これから少しづつ進めていきますので、
ここでは浅草生まれの作家たちに絞って列挙してみます。
若干はみ出て、下谷、上野あたりまで入るかもしれません。

全員ではありませんが、その名が広く知られている方々から、敬称略で
挙げてみます。
あいうえお順で、( )内に町名を入れてみますが、出生時の町名です。
現在は町名表示変更で、ほとんどが変わっています。
詳細を紹介する時には現在の町名表示を併記して比較しますので、
今日はお名前だけ。
「へえ、この人も浅草生まれなの」と思っていただければよいです。

あ 荒俣宏(入谷)、安藤鶴夫(向柳原町)
い 池波正太郎(聖天町)、石川淳(三好町)、石川弘(浅草)
う 宇野信夫(永住町)、円地文子(向柳原町)
え 落合信彦(浅草)
か 加太こうじ(神吉町)、唐十郎(万年町)、川口松太郎(今戸)、
  川田順(三味線堀)
く 久保田万太郎(田原町)
こ 幸田露伴(下谷三枚橋横町)、小島政二郎(下谷町)
さ 沢村貞子(千束町)
し 芝木好子(東仲町、出生地は北区王子)
た 高村光太郎(西町)、田久保英夫(田中町)、田村俊子(蔵前)
つ 辻潤(向柳原町)
と 土岐善磨(松清町)
な 中村光夫(練塀町)、成島柳北(江戸、御厨河岸)
ひ 日野草城(下谷山下町)
や 山下清(田中町)、山田太一(浅草)、山本夏彦(根岸)
よ 吉本ばなな(谷中)
わ 渡辺水巴(小島町)

これですべてではありませんので、念のため。
いずれ、業績や小学生の頃の話などを紹介しながら、一覧にしてみます。
このサイトではその準備として、備忘の代わりの意味も込めて、随時
記事にしてゆきたいと思います。

機会を見てタレントさんの一覧も準備できればいいなと思っているのですが。
萩本欣一、唐沢寿明、東八郎さんの息子さん・・・お楽しみに。

浅草雷門前蓑市

12月の17,18日は歳の市、羽子板市でした。
それが一夜明けて19日、雰囲気はがらりと変わって蓑市が立ちます。

東都歳事記には次のように書かれています。
19日、浅草雷門前蓑市。
蓑を多く商う、3月の如し。

既述の通り、17,18日は歳の市で、師走のこの両日は
江戸で一番賑やかな市でした。
そして日を空けず、翌19日、蓑市が続きます。

蓑市というのは、浅草寺の雷門外に蓑を売る露店が多く出たことから
そう呼ばれるようになりました。

歳事記には「3月の如し」とあります。
これは、3月の蓑市のような光景に変わると言っているのです。

「浅草寺誌」3月18日の条に、
「近在よりみのを持出て商う。19日に市たつなり。」とあり、
「江戸府内絵本風俗往来」には、
「蓑市は、浅草観世音の市、17,18と翌19日、雷門内外へ蓑売る
露店多く出たり。当日は、近郷近在の農家の人多く、老婆、少女
田舎姿にて・・・」とあります。

つまりこの日は、近郷近在の農家から、老婆や少女が田舎の姿で
出てくるので、前日までの歳の市が引けると、田舎然とした風景だけが
残るというのです。
一夜あけると、雷門周辺の雰囲気が大きく変わったことが想像できます。

江戸古地図を広げると、観音様の裏側からは「田」が広がっています。
19日にはこの周辺の農家からは勿論、近郷近在の農家から、田舎姿の
老婆、少女が集まってきたのですね。
蓑市とありますが、蓑以外の農工具なども並べられたのでしょう。
前日までの歳の市(羽子板市)が江戸町民の新年の準備とすれば、
こちらは農家の新年準備ともいえるようで、市の雰囲気も
対照的に一変したことがイメージされます。

この変化、江戸の生活がうかがえるようで、一度経験してみたい気が
します。

浅草の川

山谷掘

浅草に伝わる話の中で、「馬道通り」を紹介しました。
参:天狗に連れてこられた人
この馬道の途中から並行して流れていた川を紹介します。
本来は川ではなく、人工的な堀だったようですが。
この周辺は低湿地帯の水田が広がり、その水を管理するために
掘られたものでした。
隅田川の氾濫も幾度となく経験していたので、治水には相当
神経を使ったあとがあります。

この堀は、隅田川へ向かい、聖天様の北裏で隅田川に注ぐのですが、
そこには水門があり水量が調節されていました。
その水門は、私が社会人になった頃もまだ健在でした。

現在はその水門付近から堀すべてが埋め立てられ、緑地公園に
変わっています。
堀川の後ですから細長い形の公園で、そこに桜が植えられたので、
春には隅田公園から桜の川のように連なり、地元の人たちの隠れた
花見の穴場となります。
地元の春の名所です。

その堀に掛けられていた橋は、幸いなことに橋の名を記した柱が
残されました。
小学生のころから見慣れた橋なので、その名を見るたびに、
さまざまなシーンが思い浮かんできます。

橋の名を紹介しましょう。
江戸時代からあるものと、比較的新しいものとがありますが、
隅田川に注いでいた水門に近いところから上流に向かって、順に
今戸橋、吉野橋、山谷掘(さんやぼり)橋、正法寺(しょうぼうじ)橋、
紙洗(かみあらい)橋、地方(ぢかた)橋です。

地方橋をくぐるとその先は、小学生のころにはすでに地表で覆われ、
暗渠化していました。
しかし、水量は豊かにここまで流れ、調節によって満ち引きが
ありました。船も上がってきて、つながれていました。
普段は、長い棒の先に網を取り付けて、小魚を追いかけたものですが、
台風の時などは、手が届きそうなところまで上がり、子ども心に
恐ろしさを感じたことを覚えています。

正法寺橋あたりからは馬道通りと並行する形となり、日本堤、吉原へと
進んでいました。
江戸時代、吉原が賑やかだったころ、ふところ豊かなお大尽は、両国、
柳橋あたりから隅田川を舟で上ってきて、この堀に入り、日本堤で上陸し、
吉原で遊んだという記録が残っています。
かの紀伊国屋文左衛門もそうした一人だったのでしょうか。

幅の広い馬道通りが北へ向かって、道なりに左へ大きく傾くのが
正法寺橋あたりで、ここからは片側に土手が走り、土手に上れば
下には堀があり、遠く隅田側との間にはさまれた土地は田んぼが
広がるという、のどかな田園風景が浮かんできます。

それぞれの橋の名には、当時を偲ばせる由来のものもあり、興味深いので、
別に紹介するつもりです。

この周辺からは多くの作家、画家が生まれていますので、
そのご紹介も楽しみに。
タグ:隅田川

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