引きずり餅や、賃餅

餅つき

東都歳事記の12月26日、「この節より餅つき、街に多し」

浅草の我が家では、私がまだ幼稚園に入る前、年末になると
自宅でお餅をついていました。
家族だけでなく、近所の人や、子供の私には初めて見る顔の人も
混じって、せわしなく動き回る光景が鮮明な記憶として残っています。
その光景に出てくる父や母はいつまでも若いのですが、杵や臼などの
準備はどうやっていたのでしょうか・・・お米屋さんから借りたのでしょうか。
朝早くからざわついて日常とは違う雰囲気が、子どもの心に
好奇心を起こさせていたに違いありません。

東都歳事記の12月26日の項には、餅つきの記述が出てきます。
12月26日「この節より餅つき街に多し」とあって、門松の
準備とともに、この餅つきが年末の街をざわざわとしたせわしさに
駆り立てていた雰囲気を伝えています。

この「餅つき、街に多し」というのはどんな光景でしょうか。

江戸時代、年始用の餅は自分の家で搗いて準備していたのですが、
人手が足りないとか、時間がないとかの理由で、自分たちの手では
準備できない町家、庶民も多かったようです。
そういった家のために、注文に応じてお餅をついてあげる人たちがいて、
「引きずり餅や」とか「賃餅」と呼ばれていました。

引きずり餅やというのは、4,5人づつ組んで、餅つき道具一式を
持参しながら家々を回り、注文を受けると威勢よく賑やかに餅を
ついたということです。想像するに、4,5人づつの男たちが
大声で注文を取りながら町を歩いたり、あるいは路上で餅つきを
したりする光景は相当勇ましかったに違いありません。
昼間の路上であれば、周りに子供たちが集まり、大人たちから
邪魔だと叱られたり・・・そんな光景も浮かんできます。

賃餅というのも同じですが、こちらは場所を構えていて、
もち米を持ち込んでくる人たちに餅つきをしてあげたシステムです。
そういえば、今でも浅草のお米屋さんやお菓子屋さんでは、
年末時期になると「お餅つきます」といった貼り紙を出している
所があります。これは江戸時代に言う「賃餅」ですね。
餅つきの需要は江戸時代から変わらないようです。

こんな記述が見えます。
「市井の餅つきは餅搗者4,5人宛組み合って・・・傭て
餅つかする人糯米を出して渡せばやがてその家の前にてむら立ち
街中せましと搗きたつることいさましく昼夜の分かちなし。俗
是を賃餅または引きずり餅というなり」

餅つきは冬至すぎからぼつぼつ始まり、26,27日頃から
大みそかにかけてがピークとなりました。この頃は、まだ暗い
朝早くからつき始め、夜遅くまで続き、徹夜もあったそうですから、
江戸の町では冬の乾燥した空気の中、夜、遠くから杵、臼の音や、
いさましい掛け声も聞こえてきたのでしょう。
布団に入った子供たちの耳にも届いて、何かしらワクワクして
寝付けないでいる気持ちを想像すると、幼い私がそこにいたような
気分になることがあります。

浅草から引きずり餅やさんが姿を消したのは、いつごろのこと
なのでしょうか。


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